まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

無題

キリがないことは、切断しなければ。際限のなさを切断する。音楽にはキリがないし、練習にもキリがない。だから、必ず、割り切らなければならない。どんなことを夢想するのも自由だが、際限のない夢の連想の続く先は地獄の扉だ。だから、ある種の適当さを許容し、切断しつつ、取り組んで行くほかない。


音楽ってやっぱヤバいな。人を死に至らしめる。そういうヤバさがある。だから、心してかからないと、死ぬ。7月の末あたりから、今日まで、本当に深いところまで行った。悲愴に取り組む心と、シューマンのファンタジーがそこに私を連れて行った。死の淵。ここを覗いて、落ちたら死ぬという場所。この3日、毎日、朝夕2回、5キロを走って、こちら側の世界に足をつなぎとめた。これ以上行くと死ぬ、という場所。
こんな無理をしたのは、高校以来、初めてかもしれない。音楽は、恐ろしいものだ。恐ろしいものだ。
結果として、3週間で悲愴を一応形になるまで仕上げることができた。因果関係はわからない。この曲が、私をそこに連れて行ったというより、シューマンのファンタジーが引きずっていったように思う。でも、私が取り組んでいたのは悲愴だった。ベートーヴェンの苦悩や、病みというのは健全なものだ。健全な悩み。前向きな悩み。深刻さはあれど、表象される音楽の深刻さは、魔界とは一線を画している。こちら側の世界での戯れ。言語、記号的世界での記述。だが、あちら側の世界への道が開いていないわけではない。入口はあるが、小さなものだ。一方、シューマンはまったく別だ。全てが入口になっている。飲み込まれたらひとたまりもない。言語、記号的な世界から、イマジネールの世界へ大きく足を突っ込んでいる。人間が、人間として生きていくには難しいような世界。戻ってこれる人間は、相当強くないと、耐えれないだろうと思う。でも、私は、なんとか戻ってきた。病んではないし、認知も正常だ、仕事にも行ける。ただ、泣き出したくなることは増えていた、つまり夢の世界にはいたのだ。ロマン派。彼らは異常な人間だ。そんな音楽を、剥き出しの生身の身体で受け止めることなんて出来るのだろうか。限りなく特異な条件下でしか、そういう扉は開かれないだろうとも思うが。。。
ともあれ、私は戻ってこれたのだ。イマジネールあるいは現実界のやばい世界から、象徴の支配する世界へ。