まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

無題

無題

友人と飲んだ。人生が短いことについて、最近考えることが増えたことを話す。生き辛そうだ、と言われる。大半の人は、そんなことを考えては生きていない、と。
私は切実に思っている。

無題

もともと変化を嫌うほうだ。
朝走りに出て帰宅し、シャワーを浴びる。ご飯を食べて練習するか、ドトールでアイスコーヒーを飲む。また練習をして、「ああ、もう午後3時だ、都内に出るには今出ないとレッスンに待ち合わない」と思う。そのまま5時くらいまで練習を続けてしまう。家を出て、駅構内になるドトールでまたアイスコーヒーを飲む。電車で移動して、レッスン最寄駅の喫茶店で本を読んで過ごす。そのあと、近くのスーパーで少し小腹を満たしてからレッスン。毎回このパターンだ。

気分転換が必要だと思いつつ、新しい景色を触れる事が出来ていない。そうは言えど、金曜日は宴会で楽器を弾き、土曜日は友人の家に招かれてピアノを弾かせて頂き、昨日はちょっとしたパーティにも出た。

おそらく一人で旅に出る機会が足りていない。美術館にも足を運んでいない。公園の散歩もしていない。練習もしたいから、なかなか時間も足りないのであるが。

無題

確かに、楽器を複数ものにしていることを褒められることはある。僕はどれも中途半端だという風に思っているから「そんなことはないのですよ、どれも中途半端ですから」と答える。

無題

私はもう少し、どちらの楽器も腕を上げたい。世の中に溢れている定型的なメッセージとは違う言葉の使い方で、異なるメッセージを伝えられるようになりたい。また、その世界の者同士でなければ読み取れない言語によるコミュニケーションを楽しめるようになりたい。芸事であれば何でもそうかもしれないが、「その道の人同士にしか伝わらないこと」と「その道の人でなくても伝わること」がある。裾野を広げるためには後者を意識するほかないけれど、そのためには、一度前者を経由するほかない、ようにも思う。保守的な考え方でしかないかもしれないが。

無題

本番まで1日たりとも無駄にしたくないのに、マスターベーションでしかない練習を入れてこようとする人たち。愛すべき人たち、かもしれない。

無題

宗安先生、お元気ですか。
僕はまたピアノを習っております。せんせいに習っていた中学生の頃は、全然練習してませんでしたが、それでもワルトシュタインや熱情を弾かせてくれました。全然、それがどんな曲か知らずにいましたが、せんせいが選んでくれた曲だったので、なんとか発表会でも弾いてました。中学の文化祭でも弾きました。全然、今思うと音楽ではなかったかもしれませんが、でも、弾きました。
今は、もうあの頃のようには弾けません。
でも、あの頃の自分を越えようという一心で頑張っています。今取り組んでいる曲は、熱情の1movです。先生に言われて3楽章を弾いて、あの曲が好きでした。1楽章は、3楽章よりも難しいです。きっと、1楽章がちゃんとものにできれば、僕はあの頃の自分を超えられると思います。どうしても、あの頃の自分よりも先に進みたいです。一人で音楽をすることがつまらなくて、オーケストラが好きになりましたが、また、一人で音楽をすることに戻ってきました。とても楽しいです。是非先生に聞いて頂きたいです。
まだお元気でいらっしゃいますか?

無題

2月も後半。仕事はなんとか形を整えて殆どの日を定時で帰り、特に自分からは予定を作らずに毎日2時間弱を練習にあてることができている。通勤時間には本を読んでいる。今は向井周太郎先生の『デザイン学』を読んでいる。
練習だけをする毎日は、とても楽しいように思えるけれども、僕には少し耐えられない。三連休だと思うと、これでたくさん練習ができる、という気持ちになるものだが、それが続くと、だんだんと、逃げたくなる気持ちも出てくる。一つには、自分と付き合う時間が長すぎることと、あまりに深刻になり過ぎると練習の内容とその練習から受ける感情に自分の気持ちが左右される割合が大きくなってしまう。性格なのかもしれないけれど、これはどうしようもないことだと割り切っていても、時々どうしようもない考えに心を奪われてしまう。昔とは違って、本来は考える必要のないことであるということは頭で理解している。けれどもそれだけでは、メンタル的なちょっとした落ち込みを防ぐことは出来ないということも昨年の夏に学んだ。音楽は(芸術は)恐ろしいものであるし、簡単に人の心も乗っ取るものだ。だから、然るべき距離を取っておかないと(これは訓練によって覚えるものだ)いけない。無論、自らその一線を越える判断をする場合もあるけれども。

無題

有酸素運動を定期的に行なっていても、ディプレッション気味になることがある、ということを昨年の夏に学んだけれども、これは私の気質なのだろうか。

無題

師弟関係、と言う関係について。二者間で行われるレッスンの時間というのは、確かに、そういう空間での(場所性)そういう師弟関係という関係において(関係性)しか生起しないような事柄が起きる(事件)。これは、もともとは神と自己という二者関係が基礎になっているのではないか、と僕は思っている。確か内田樹が何かの本で書いていたと思うけれども、師から受け取るメッセージは常に呪文というか謎でしかない。普通に受け取れば普通なのだけれども、「わたしには分からないことをこの人はわかっている」という状況から発せられる言葉は全て謎を帯びる。これは宗教でも同じだ。

無題

自分に必要のない言葉は自分にかける必要はなく、自分に必要のない言葉は自分の中に入れる必要はない。けれども、それだけだと、自分の器は広がらない。ちょうと、自分の見ているTwitterのタイムラインが、他の人のタイムラインとは、全く別葉のものであるように。
明日はiPhoneを持たずに生活してみようか。

無題

誰だって多かれ少なかれ倒錯した部分を持っていて、倒錯した欲望を満たすことで、規範に満ちた日常生活で犯罪を犯すことなく生きていける、という側面がある。婚外恋愛で満たされて、普段の夫婦仲もうまく維持できる、というような(いいか悪いかは色々あるだろうけど)。