最近ピアノに熱心なのは、仕事外での評価軸がひとつ欲しいという欲望が自分にあるからなんだろうと理解した。趣味のひとつの効用ではあるのだろうけど、複雑だな。
休日
休日。30分のランニングの後、ピアノをさらって、近所のドトールでゆっくり。毎度のことながら、ドトールにいるといろんな人の会話が聞こえる。1つのグループは清原和博のような白のチノパンを履いた色黒の男性と女子大生くらいの年齢の女性2人。おそらく鼠講ビジネスのレッスンを受けている。既にこの女性たちはその仕事に取り組んでいるようだ。マインドコントロールも受けている。今日はこれまでの取り組みの中から出た反省点や疑問について、教祖と思しき清原和博似の男性に話をしていた。清原和博似の男の話は論理がどうとかそういう次元ではなく、「あなた次第だ」という結論にどんな話も落ち着けていた。そういえば、僕もある時斎藤さんというアプリで適当に知らない人と話をしていたとき、美容商品の勧誘をされたことがあった。半年前くらいだったかも知れない。とにかくそういう人と話をすると、「何かに囚われている」感がまず伝わってくる。「その事実はどう調べたのか」「誰から聞いたのか」「なぜそうなのか」聞いていくのはまるで説教をしているみたいで、たいていの場合はそんなことはしないけれど。
もう1つのグループは、母と娘の2人で、おそらく働いていない長男(もう35〜40くらいのいい歳なのだろう)がボランティアを始めるということに対して意見を言い合っていた。母親は肯定的、娘は否定的だった。母親の気持ちは分からなくもない。ボランティアで何であれ社会と結びつきを得ることはためになるから肯定していたのだろうと思う。娘は、ボランティアのような無償労働ではなく賃金労働をすべきだという立場だった。分からなくもない。この2人の話は平行線のままで、そのうち違う話題に移っていった。
僕はといえば、昨日から三連休なのだけど、先月お金を使い過ぎたために最寄りの駅からどこにもいかず過ごしている。昨日はピアノのレッスンだった。そのあと、別に楽しくもない職場の飲み会に顔を出した。今日はショパンをさらってラズモフスキーをさらっている。明日はTOEICの試験だ。
東京国立近代美術館の日本の家-1945年以降の建築と暮らし展に行ってきた
竹橋の東京国立近代美術館でやっている日本の家展に行ってきた。
まず、系譜学というものについてフーコーを引きながら「系譜をたどって行くことは、一点に収斂するというよりは散逸していくものだ」というような説明のパネルが現れる。今回の展示は
- 1945年〜1970年
- 1970年〜1995年
- 1995年以降
に区切り、それぞれのマトリックスから13のパネルによって展示されている。取り上げられていた建築家は、池辺陽、難波和彦、板倉準三、坂木一成、伊東豊雄、柄沢祐輔、藤森照信、隈研吾、西沢立衛、妹島和世、安藤忠雄(ほか多数だが私が知っている方たち)といった面々であった。以下、写真撮影OKだった部分のパネルと作品をいくつか紹介する。
感覚的な空間より妹島和世
町家:まちをつくる家よら安藤忠雄
清家清設計≪斎藤助教授の家≫
展示室の真ん中にでんと大きな家があったけれど、ただの家という感じであまり人気はなさそうだった。笑
水族館で水槽を眺めるように1つ1つの建築の縮小模型を眺めていけるのでデートにもオススメ。空間というのはコミュニケーションと切っても切れない関係にあるので、絵画系の展示よりも誰かと一緒に行った方が楽しい企画展だと思います。