まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

ジャコメッティ展とサンシャワー東南アジアの現代美術展に行ってきた

国立新美術館

せっかくの休みだしドトールにいても仕方ないと思って、行けていなかったジャコメッティ展に行ってきました。本当は東京国立近代美術館の『日本の家展』に先に行きたかったんだけど、調べずに竹橋に行ったら月曜日は休館でした。

ジャコメッティ


ジャコメッティといえば、あのひょろひょろの彫刻、というイメージだが、一つだけ『ジャコメッティのアトリエ』の文章だけは覚えている。探したらインターネットに落ちていた。

美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。だから、この芸術と、ひとびとが悲惨主義と名付けるものとは、はるかに隔たっている。 ジャコメッティの芸術はあらゆる存在、のみならず、あらゆる事物のこの秘められた傷を見出だそうとのぞんでいる。この傷がそれらの存在や事物を照らし、輝かさんがために。私にはそう思える。 ジャン・ジュネジャコメッティのアトリエ」

ジュネはそう書いているけれど、言われればまぁそうかなぁ、というのが素人の感想で、一番見たかったチェース・マンハッタン銀行プロジェクトの三つの彫像が見れた。ここは写真撮影オッケー。歩く男、大きな頭部、大きな女性立像。この3つを生で見れるだけでも来た甲斐があった。9月4日で終わってしまうので、まだの人は是非行ってほしい。

ジュネの本は読み返さないとな、と思っている。ジュネに触れているパネルもあったのでお土産コーナーに書籍として紹介があるかなと思いきやなかったので残念。

サンシャワー東南アジアの現代美術展

ジャコメッティ展に隠れて二階でやっていたので立ち寄った。客層としては、ジャコメッティに比べたら美大の学生ぽい若い人たち(僕も若い)が多かった。で、個人的にはジャコメッティ展より面白かった。インスタレーションが多くて瀬戸内国際芸術祭や越後妻有(僕は毎度会期になるとボランティアスタッフで参加している)のような雰囲気も感じられた。植民地支配の長かった歴史と、近年の経済成長の勢いを感じさせる展示が多かった。写真撮影OKだった作品3つを紹介します。

ナウィン・ラワイチャイクン『ふたつの家の物語』


アイスクリームを売ってるようなお店。中に入ると雑多なもので溢れている。僕はフィリピンのセブ島にオーケストラの演奏で行った時に、貧困街やゴミの山なんかも見学したけれど、そういう街中にあったバラック小屋と似ている。中には日本のテレビや扇風機が付いていて。

スラシー・クソンウォン『黄金の亡霊(どうして私はあなたがいるところにいないのか)』


これぞインスタレーションという作品。このモールでできたふかふかの中に金が紛れてるという設定。ゴミ山から金属を見つけてそれを売って生活している人々がいることを知っていた僕はそのことを思い出して鑑賞した。政府がゴミ山の管理をすればいいのだけれど、ゴミ山がなくなると生活できない人が出てくる、というなんとも言えない話。

アングン・プリアンボド『必需品の店』

「他の人には重要だけど自分はいらない物を買いましょう」buy unnecessary things for me yet important to others
「買い物は私たちを完璧にする」shopping made us a complete human being
というネオンが光っている。

ジャコメッティ展より600円安い価格設定にも関わらずボリュームはこっちの方があって、インスタレーションも多く非常に楽しめました。ジャコメッティ展だけじゃなくてこっちも是非行ってみてください。

ドトールバリューカードのランクがプラチナになった

ドトールプラチナランク前夜

 まだ夏休みを消化し切れていないため4連休。そんな休みでも毎日ドトールには通う。昨日は朝から練習があったのでfitbit的には5時間の睡眠となってしまったけれど、金曜日と今日で両日とも12時間ほど眠った。睡眠の管理にはカフェインを使っている。巷で話題の睡眠本には午後2時以降はカフェイン摂取を控えるようにと書いてあった。カフェインの半減期を考慮してのことだと思う。僕もそれを忠実に守っている。ところでこの休みの間、色んな夢を見た。平日には見た夢のことなど殆ど覚えていないのだから最近の中では貴重な記憶だ。
 ひとつは、ロードバイクに乗って冒険に向かおうという人たちとのアドベンチャーで、山小屋みたいなところに一旦集合していた。崖から転げ落ちそうな場所で、僕は這って進んでいた。自転車は左から乗るものだから、谷側にまわらず跨ぐことが出来る。そんなことを仲間に話していた。トイレの場所が少なく、用をちゃんと足せるか不安だった。なかなか、夢を覚えている日が少なくなったが、こういうアトラクションをずんずん進んでいく夢を見ることが多い。

ドトールバリューカードのランクがプラチナになった

 僕は喫茶店ではドトールしか使わない。タバコを吸うからというのもあるし、大学で授業を受けていた千葉雅也の影響もあるし、家の隣がドトールだからというのもある。バリューカード会員になって、利用金額を調べて見たら、ちょうど年間利用額が50,000円を超えたところだった。これでプラチナランクだ。プラチナランクとはどれくらいかというと、2日に1度以上はドトールのアイスコーヒーを飲んでいる計算になる(50,000÷12=4,166, 4,166÷30=138)。9月いっぱい、年間利用額は計算され続けるので、おそらく52,000円くらい使う計算になる。
今後は入金で10%のポイントがつくので、ますますドトールしか使わなくなりそう。ドトール最高だよ!とこれからも発信していくつもり。

昨日もドトールで『利己的な遺伝子』を読んでいた(読み通すのに骨が折れる本だ…)。頼む、kindle化してくれ。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

tinderでの女の子の趣味について

 友人の勧めでtinderなんかをやっているのだけど、好きなことをスラッシュで区切って書く文化はツイッターからなのか。それは置いておいて、海外旅行/海外ドラマ/ライブ/映画/ゴルフ、なんて書いてあってもこちらからすれば「じゃああとは顔と話した感じがわからないとダメだな」となる。申し訳ないけど、周りと同じが好きで浪費好きです、というメッセージにしかならない(そういうのが好きな人はいいだろう)。

 結局のところ、いま自分が生きていて関わりを持っている人々というのは何かしら自分と人生の共通項があり、何らかの要素が似通っているものだ。所得にしろ、学歴にしろ、文化的な教養にしろ。そういったものは、社会階層を作る。それがSNSによってゆるやかに取り払われることは民主的なのかもしれないが、自分の人生にとって有益なのかという点では、僕は疑問だ。僕は、今の自分の身の回りの人間関係を大事にできないでSNSの点在する人間関係を構築しても結局のところその関係は消費されるだけで身にならないのではないかと考えている。

クレジットカードの還元について

浪費が浪費を生む構造

 浪費で貯めたクレジットカードポイントを浪費に充ててしまっては賢い使い方とは言えないのではないか、という気づき。クレジットカードのポイント還元という制度は、結局のところ「何に還元するか」が利用者に委ねられている。そんなもの何に還元しようと個人の自由だ。しかし浪費が新たな浪費を喚起している状態(浪費に新たな浪費を喚起されている状態)にあっては、還元も何もないのではないか?ここはよくよく考える必要がある。

 「ポイントがざくざく貯まる」が謳い文句の楽天カードだが、本当のところは、「その楽天ポイントで何を買うか」が大切なのだ。その点、楽天という会社は情報弱者や考えの浅い消費者をカモにしているところがなくはない。イトーヨーカドーの買い物でのみnanacoカードを使う、あるいはイオンでのみWAONを使う、といった使い方とは異なるからだ。nanacoカードの入金に楽天カードを使い、楽天ポイントnanacoポイントに化けるなら良い。でも実際にはそんなことはない。楽天ポイント楽天での買物に使われる。楽天営利企業であるからだ。ここに「ポイントがざくざく貯まる」カラクリがある。ちょっと考えれば分かることかもしれないが、気づいていない人も多いかと思う。還元率に踊らされてはいけないのだ。公共料金の支払いにnanacoカードを使えば楽天ポイントが貯まる。しかし、その公共料金の支払いに直接楽天ポイントは使えないのだ。携帯電話料金の支払いで楽天ポイントが貯まる。しかし携帯使用料金の支払いに楽天ポイントは使えないのだ。

 生活必需品、自己投資、あるいは本当に欲しい長年使えるもの、といったものに還元されてこそ、クレジットカードの還元というものは意味があるのではないか。

Amazon楽天

 僕の場合、楽天で買物をすることはほとんど無い。Amazonでも書籍やヘアワックスくらいしか買わない。であれば、楽天カードに支払いをまとめるよりもAmazonカードに支払いをまとめた方がいいよね。という話。