原宿でのテロ
年始早々、原宿で自動車が歩行者を跳ねる事件があった。ちょっとした?ではない、テロ事件だ。
ちょうど僕はこの年末年始に読みたかった『欲望会議』を読み終え、立木康介著の『露出せよ、と現代文明は言う』を読み進めていたところでの事件だった。平成とは何だったのか、平成最後の、と叫ばれることの多いこの年末年始の祝祭的ムードの中で、1997年の神戸連続殺傷事件、2008年の秋葉原事件の系譜に接木されるような事件が起きてしまった。
立木氏の本はまだ読み進めて間もないけれども、事件を取り巻く言説を考えるにおいて示唆的な部分がある。これはサカキバラ事件についての部分。
サカキバラと名乗った少年の問題はどこにあったのだろうかー「心の闇」が存在していることにではなく、それがむしろ存在していない(著者傍点)ことにでなかったとしたら。実際、彼の行動のどこに闇が見いだされるのかー殺したい、痛みを与えることによって人がどうなるのか見てみたい、という欲望が、かくもあからさまに白日の下に晒されていたこの少年のどこに。少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なったのだ。ほんとうなら、彼は心のなかにもっと深い闇をつくり、彼を現実の殺傷行為へと突き動かすことになった苛烈な欲望をそこにしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかったのに。
立木康介著『露出せよ、と現代文明は言う』p26-27
心の闇が存在しないとなると、二面性を持つとする近代的な人間像が崩壊してしまうわけだから、「理由探し」ということが出来なくなってしまう。「ただテロを起こしたかったから」では近代人は納得しないのだ。けれどもそういう社会になってきている、という平成最後の年末年始。
無意識の消滅
「なんでも明らかにしろ、エビデンスをよこせ、理論立てて説明しろ、1つの答えをくれ、」みたいな声の総体。明らかにできないものは社会的に存在しない(してはならない)かのように扱いたい、という欲望。その結果、我々の無意識は蒸発してしまい、インターネット上にだらだらの流れ出た共同無意識のみが残る状態になってしまった。あらゆる「傷」が等価に扱われ、個人的でプライベートな「傷」は無くなってしまった状況、それが「身体の喪失」された状況。
精神分析的な人間観では捉えきれない状況になってきている、ということは『欲望会議』でも、他の本で松本卓也氏も触れていた。僕個人の話をすると、2000年代はてなダイアリーの内面独白系の世代なので、無意識を堅牢に保持しようとするメンタリティを懐かしんでいるのだけれども。
心の闇の住処
いま僕が観測する心の闇の住処は、ツイッターの裏垢界隈だろうか。どろどろとしたデュオニソス的な世界がある。
ギリシア・ローマ的身体
『欲望会議』で身体の喪失が書かれている部分で、千葉氏がギリシアローマ的身体を例に「強さ」を論じている部分があり、気に入った。
我々には、近代的な内面性とは別の主体性のあり方、それこそギリシャ・ローマ的な主体性のあり方を持っている部分があって、僕は、強さというのはそっちに関わっていると思う。だから、内面的な主体性ではなく、ギリシャ・ローマ的な意味での、外側しかないような主体性を復活することが、強くなるということの一つのキーになってくるんじゃないでしょうか。
これはmetoo運動と集団ヒステリーの人たちが傷つきを享楽している、傷を引き受けられない、否定と肯定を同時に引き受ける強さ、という文脈で語られる強さなので、書籍を一読されることをお勧めする。このあと、ニーチェの「畜群的」という言葉を引き合いにだしてローマ的な主体性は「弱い強者」のあり方だ、と述べていて、端的にこれはカッコいいなと。
読んだ本
- 作者: 千葉雅也,二村ヒトシ,柴田英里
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- 作者: 立木康介
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- 作者: 千葉雅也
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