たもたす。

比較文化、哲学あたりの人文系が好きです。社会学や現代思想も少し。読んだ本、観た映画、日々の記録。

なぜ今「パパ活」なのか

パパ活というものがある。お金を女の子に貢いでご飯を食べたり、服を買ってあげたり、ドライブに連れて行ってあげたり。中には性的なサービスが含まれることもあるのだろう。従来の援助交際の2017年版みたいなものだ。でも、なぜ今パパ活が流行っているのか。

ツイッター裏アカの世界

 ツイッターで裏アカのハブになってる人を追ってると、パパ活専門でないにしろ、芋づる式に性的な存在として見られることを欲望しているアカウントがわんさかと出てくる。そのうち内訳は1.デリヘル業社2.老舗出会い系サイトから流れてきた人たち3.お金が欲しい女の子4.パパ活女子5.性的に欲望されて承認されたい人たち6.ネカマ7.LINEアカウント回収業社といった感じだろう。料金をご丁寧に指定したメモ画面のスクショが固定ツイートに貼ってあったりする。中には脱ぎたてのパンツを売ってる女の子や喘ぎ声を売っている子もいる。もうなんだってアリな状態だ。
 アダルトビデオでこういうジャンルが売られていること自体を問題だと指摘することもできるけと、僕はそういう話にはあまり興味がなくて、ただ彼女らが何を考えてどういう意図でそういうことをするのかに興味がある。大抵の場合(あまり文字に起こしたくはないけれど)彼女らの多くは社会階層的には潜在的に下位に属する人が多いのだろうと思う。性風俗産業が人間の欲望に基づいておりお金のある男性の娯楽として成立している以上、お金を持っている人が性サービスを受けることを咎めることもない(できれば合法にサービスを受けて欲しい)。法律という問題を除いては。なんだってそうだけれど、うまくやれる範囲でやるならいいんじゃないの、と思っている。その、あらゆる「性的に欲望されることを目的としたアカウント」という灰色のグラデーションの中で、わりかし白色に近い灰色に位置しているのが一義的にはパパ活アカウントということになろうか。

パパ活に励む男性のウマ味

 あらかじめ性的対象であることを受け入れた女性。自覚的にか無自覚なのかは人によるだろうけれど、パパ活女子というのはそういう対象だ。一般的な世間にあっては、そういう人たちは軽蔑の対象となる。そして、あらかじめ性的対象として人を見ることを許されていない空間=社会の中において、その内部でうまく性的にゴールできない人たち=オッサンにとって、パパ活女子のような子達は、格好のエサとなる。勇気も現実ほど必要とされないし、すぐ二者関係のコミュニケーションに持ち込むことができる。パパ活女子に限らず、SNS上で行われるオッサンたちの女の子たちへのコミュニケーションというのは、「社会の中ではうまく性的にゴールできないけれど、こういう女の子達とであればうまくできる(俺も男性として見られるんだ)」という半分の自尊感情と半分の自傷感情、そのアンビバレントな両方を与えてくれる。さらに、心のどこかで軽蔑しながらもその軽蔑を一般化して「軽蔑されるような女性に対してジェントルに振舞う俺」に酔うという特典まで用意されているのだから、男性にとっては一度で何度も「オイシイ」のだ。キャバ嬢の営業のようにその気持ちが仮構のものだということを気にしなければ、ということだが。

SNSセカイ系とレイプファンタジー

 ここに僕は宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』で指摘されているセカイ系作品への批判、つまり「安全に痛い」レイプファンタジーとしての批判と同様の構造を見る。SNSに性愛の要素を絡めたサービスには、全てこの危険性があるのではないかと思っている。というのは、外部が存在しない状況を容易く作れるからだ。宇野常寛の本から引用する。

主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「君と僕」)を、社会や中間項を挟み込むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力
東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』)

 これがセカイ系の定義であり、これだけ読んでもよくわからないかもしれないけれど、つまり二者関係がダイレクトに絶望に繋がる、みたいなイメージだ。本来は、仮に彼女にフラれたからと言って即座に自殺する人は少ない。他に生きる希望や糧を持っている人が殆どだからだ。だけど、このセカイ系の世界観では、二者関係の揺れ動きがそのまま自分の生存に繋がっている。宇野はこのセカイ系の考え方はゼロ年代以降の成熟社会に生きる我々を呪縛していると書いている。

価値観の不透明な世の中に耐えるため、あなたひとりだけ(特定の共同体だけ)には完全に承認されたい(所有したい)という欲望の問題は、最近十年に至って引きこもり/セカイ系(必然的に決断主義化する)=決断主義/サバイブ系(セカイ系的な前提を必要とする)的な問題意識として、社会を広く覆いつくしていると言っていい

 不安な人生の中で、何か確かなものが欲しいという気持ち。それに応えるものとして、例えば女の子を「所有する」という構造。なんとも、パパ活女子というのは現実の世相を反映している。需要があるのは明らかだ。

SNS上で人を「所有」することの暴力性

 SNSで顔の見えない相手に対して想像力が膨らみ、何らかの感情を抱く時、所有したいという気持ちに駆られる時、それは暴力を含んでいる。「これまで社会的自己実現がある種のマチズモ=家父長制と結託して浸透してきたことによる「誰かを所有ふることで過剰流動性下の特異点を確保」する際に発生する暴力(一部改)」と宇野は書いている。つまり、生きることが大変な現実の中で、超越的な存在として女の子を措定し、「この子は俺に懐いてるな」みたいな感覚=所有することでキモチイイ、みたいな感覚。仮に拒絶されたとしても、対象はいくらでも探すことができる。SNSという仮想空間であるから、生身の肉体を晒さずに安全に精神的な快楽を味わうことができる。この病理はとても深いものがあると僕は思う。二者関係でのコミュニケーションと、三者以上のコミュニケーションは異なり、巷を賑わせているコミュニケーション能力というのは後者を指すからだ。SNSではいつでも二者関係のコミュニケーション=外部の存在しないコミュニケーションに逃げ込むことができる。僕がコミュニケーション能力の低下という言葉を聞くときに思うのはこのSNSでの二者関係のコミュニケーションだ。閉じられた空間でしかコミュニケーションを取っていないとおのずと視野は狭くなり、自意識は肥大していく。

結論

 結局のところ、社会人をやっていると三者以上の顔を突き合わせた状態でのコミュニケーションの場でいかにうまくやるかを問われる。それは非常に疲れることなのだが、だからと言って二者関係のコミュニケーションに逃げ込んだら成長はないよ、ということだ。まあ、恋愛関係というのは二者間のコミュニケーションなのだから、それが癒しになるというのはわかるけれど。

感想をあとで書きたい映画

あたりかなぁ。

この前の『夜明けの祈り』関連だとイーダ。上のは両作ともアカデミー賞の外国語部門を獲得していて、夜明けの祈りよりも秀逸な作品。イーダだな。

モルツくん監督のNTR作品を観た

DMMで評価の高かったモルツくんという監督のNTR作品を見たのだけど、かなりショックを受けた。私はアニメを見ないのでNTRというジャンルの歴史をあまり知らない。ユリイカとか読めばいいんだろうか。ネットであまり参考にならなそうな解説を見つけて読んだりしていた。この記事は特に何かを批評するでもなく、何かを明らかにしたものでもない。

NTR作品の構成

寝とる男性、寝取られる男性、寝取られる女性。主にこの三者の関係として作品が成立している。
性風俗産業としては、鑑賞者として想定されるのは寝とる男性。女優は寝取られる女性を演じる。寝取られる男性に何らかの興奮を覚える男性というのは……俺には想像できないがいるのかもしれない。いやむしろここに共感できるからこそNTRというジャンルが成立しているのかもしれない。

NTRれ趣味

そんな趣味が成立するのか?という疑問がありながら、AVコンテンツとしても一ジャンルとして成立しているのだから何かしらの共感が得られるんだろう。一部、本当に好きな女の子に手を出せない男性が「実はNTRれ願望が」のように解説されるwebサイトがあり、眉をひそめてしまった。そんな解説をされてたまったもんじゃないだろう。しかし安堵する男性も一部に存在するに違いない。これは宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』に書いてあったことに通ずる作品なのだなと思った。読み直さなければならないな。

紹介

俺が好きなのは、高嶋ゆいか出演のこれと、モルツくん監督のこれ。後者の方が作品としての評価は高いけれど、見ていて気分の良いものではないな…。一方、前者の方はNTRというジャンルを活かしきれてないものとなっている。
言及した宇野さんの作品はこちら。

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)