まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

無題

2月も後半。仕事はなんとか形を整えて殆どの日を定時で帰り、特に自分からは予定を作らずに毎日2時間弱を練習にあてることができている。通勤時間には本を読んでいる。今は向井周太郎先生の『デザイン学』を読んでいる。
練習だけをする毎日は、とても楽しいように思えるけれども、僕には少し耐えられない。三連休だと思うと、これでたくさん練習ができる、という気持ちになるものだが、それが続くと、だんだんと、逃げたくなる気持ちも出てくる。一つには、自分と付き合う時間が長すぎることと、あまりに深刻になり過ぎると練習の内容とその練習から受ける感情に自分の気持ちが左右される割合が大きくなってしまう。性格なのかもしれないけれど、これはどうしようもないことだと割り切っていても、時々どうしようもない考えに心を奪われてしまう。昔とは違って、本来は考える必要のないことであるということは頭で理解している。けれどもそれだけでは、メンタル的なちょっとした落ち込みを防ぐことは出来ないということも昨年の夏に学んだ。音楽は(芸術は)恐ろしいものであるし、簡単に人の心も乗っ取るものだ。だから、然るべき距離を取っておかないと(これは訓練によって覚えるものだ)いけない。無論、自らその一線を越える判断をする場合もあるけれども。

無題

有酸素運動を定期的に行なっていても、ディプレッション気味になることがある、ということを昨年の夏に学んだけれども、これは私の気質なのだろうか。

無題

師弟関係、と言う関係について。二者間で行われるレッスンの時間というのは、確かに、そういう空間での(場所性)そういう師弟関係という関係において(関係性)しか生起しないような事柄が起きる(事件)。これは、もともとは神と自己という二者関係が基礎になっているのではないか、と僕は思っている。確か内田樹が何かの本で書いていたと思うけれども、師から受け取るメッセージは常に呪文というか謎でしかない。普通に受け取れば普通なのだけれども、「わたしには分からないことをこの人はわかっている」という状況から発せられる言葉は全て謎を帯びる。これは宗教でも同じだ。

無題

自分に必要のない言葉は自分にかける必要はなく、自分に必要のない言葉は自分の中に入れる必要はない。けれども、それだけだと、自分の器は広がらない。ちょうと、自分の見ているTwitterのタイムラインが、他の人のタイムラインとは、全く別葉のものであるように。
明日はiPhoneを持たずに生活してみようか。

無題

誰だって多かれ少なかれ倒錯した部分を持っていて、倒錯した欲望を満たすことで、規範に満ちた日常生活で犯罪を犯すことなく生きていける、という側面がある。婚外恋愛で満たされて、普段の夫婦仲もうまく維持できる、というような(いいか悪いかは色々あるだろうけど)。