まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

はてなダイアリーの記憶

web上に文章を公開するということは、他者の視線(アクセス数)がどうしても入り込んでしまう以上、厄介な問題を孕んでいる。ブログとはウェブ日記という形で始まった、と僕は理解している。日常を記録しましょう、誰もが発信者になれる時代だ、と。はてなダイアリーの「ダイアリー」とは日記だった。だが(誰が何度同じことを言っていようと関係なく僕は繰り返す)純粋な意味での日記ではあり得ない。自分の内面について考える作業をウェブ上ですることは、神経質な人、繊細な人ほど注意した方がいい(これは二村ヒトシも書いている)。ほんとうに。ウェブに公開する文章は、どんな形であれ誰かに宛てられた手紙になってしまう。まず、そのことを肝に銘じること。本当に日記を公開するのなら、日記帳に書いた日記を、写メって公開する方が、まだその目的に近いはずだ。

はてなダイアリーは日記ではなかった。誰かに宛てた手紙でしかなかった。idという仮の姿でのごっこ遊び(それが一種の癒し効果を与えてくれることは理解できるけれど、おそらくナルシシズムを強化するから気持ち良く酔えるのだろう、と今は思う)。
親密な、秘匿的な空間としてのブログ、あるいはウェブサイトというのは、本来恋人同士のような関係でしか侵犯しないような自他の距離をやすやすと侵犯し、その人の部屋の中にいるかのような錯覚を味あわせてくれた。ただただ無意味でしかない誰かの日常を見ること。それは幸せな時代だったという記憶に包まれている。そういう空間そのものが社会性とは相容れないものであるし(恋人の家にいては仕事にならない)、対象との距離が近すぎる文章は病的なものでもある。だから、そういう空間に長い時間滞在することはできない。

何が言いたいかというと、何か目的を持って書かれた文章というのはとてもつまらないということ。誰の、何の役にも立たない日記ほど意味のないものもない。だが、今の時代、何の役にも立たない意味のないものを見つけることの方が難しいのではないかという気がしている。そういう意味で、はてなダイアリーの「日記」がどうしようもない無意味で溢れた素敵な場所だったことがあった、という個人的な記憶は、残しておきたいと思う。