たもたす。

人文系が好きなアラサー社会人です。読んだ本、観た映画、日々の記録。好きなピアニストはリパッティ。

16世紀文化革命メモ

機械的技芸への蔑視

レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」には「経験から生み出される知識は機械的で、精神から生まれた知識は科学的である」とある。つまり当時は機械的技芸と自由学芸の対比に経験と精神の対比が投影され、「経験」が頭脳の働きを伴わないもの、理論を欠落したものとして思弁の下位に置かれていた。

自由学芸・・・文法、修辞、弁証法の3学と数学、幾何学天文学、音楽の4科。自由人が身につけるべき学芸、という意味。機械的技芸は奴隷のする仕事、侮蔑の対象であった。精神と肉体の対比。

実験に対する見方

スコラ学にあっては、実験も正当な研究方法とは認められていなかった。「事物の本質が判明したら、すべての属性は論理的に演繹できるはず」である。

これに対して実験は、魔術師や錬金術師が自然に秘められた力を使役するノウハウを見出すための試行錯誤、ないしは理論を持たない職人が技術の有効性を確かめるために用いる手段でしかなく、実験で得られた知識は原理的根拠を欠き信頼性が薄いと見られていた。

これまで錬金術は近代化学の一つの起源だとしばしば語られてきた。それはそうに違いないが、しかし、錬金術がそれまでに開発してきたおびただしいテクニックが近代化学と近代技術の財産目録に加えられて行ったのは、このように16世紀の実際的な職人や技術者の努力による。技術者による錬金術技術の継承というワンクッションを置いてはじめて、錬金術の知識と技術が17世紀以降の化学者の手に届いたことを忘れてはならない。

ビリングッチョは知識の公開それ自体を重視していたよであり、この点で彼は錬金術の秘匿体質や中世の職人組合の秘密主義を超克していた。

錬金術者とはちがって、試金師は自分たちのやり方を誰にでもわかる言葉で記録したし、またそれらは目の届くかぎり本質的に定量的であった。近代化学の形成にとって冶金術や試金法の影響は錬金術よりも直接的であった。ビリングッチョ『ピロテクニア』、アグリコラの『メタリカ』、エルカーの『鉱石と試金』。→計量と測定の精神
技術の世界での「数量化革命」が商業数学の発展と重なり、16世紀の数学革命(代数学の発展)を生み出した。


‪…自前の武器を携えた戦士の集団としての中世の軍隊と異なり、大規模に組織化された近代の軍隊では、装備の規格化は不可避であった。「計測の精神」は人体美の理想を求めたアルベルティやデューラーに始まるが、それ以上に機械技術、とりわけ軍事技術から要請されていたのである。p401‬
タルターリアの「新科学」・・・弾道学。アリストテレス運動論の修正。ガリレオの100年前。

15世紀末から16世紀のニュルンベルク

デューラー、ハンス・ザックス。コペルニクス、チコ・ブラーエ。プトレマイオスの地理学と天文学を復活させたレギオモンタヌスはニュルンベルクで恒常的な天体観測を行った。

実際、レギオモンタヌスが生き長らえていたならばコペルニクスに先んじて地動説を唱えていたかもしれない。もちろんそれは現代人の想像であって歴史で論じるべきものではない。しかし、天文学の改革にむけてレギオモンタヌスが作り出したこのニュルンベルクの伝統がやがてコペルニクスを世に押し出すことになる。

Tycho Brahe(チコ・ブラーエ)

製作工房と印刷機をそなえた恒常的天体観測施設という15世紀のレギオモンタヌスの夢は、1世紀の時を経てチコ・ブラーエにより実現された。それは16世紀のニュルンベルクネーデルラントの数理技能者たちの活動の最高到達地点であり集約点である。1609年のケプラーの「新天文学」にはじまる17世紀科学革命の中心である新しい宇宙像の提唱は、まさにレギオモンタヌスからチコにいたる1世紀にわたる技術者と数理技能者の働きが築き上げた押し上げた土台の上に開花したのである。

レオナルド・ディッゲス(イングランド、1520-1558)

宇宙の外側にある壁を打ち砕くことによって、旧来の宇宙論を完全に粉砕するだけの勇気をディッゲスは有していた。彼は恒星が無限空間の内部のさまざまな距離に分布している無限の太陽中心宇宙を描き出した近代最初の天文学者である。

数学的仮説というだけでなく、アリストテレス的な「生成消滅の絶えない月下世界と変わることのない天上世界」という二元的世界像を打破するのは容易ではなかったよう。

キリスト教ラテン語

つまるところ、キリスト教ラテン語はヨーロッパの権力者たちに支配のイデオロギーと手段を提供したのである。
…教会は宗教上の事柄だけではなく、総じて社会の上部構造全域にラテン語の使用を強制することによって、ヨーロッパ全土におよぶヘゲモニーを維持していたのである。…ラテン語の読み書き能力の有無が社会的地位を決定していたのである。

ラテン語は汎ヨーロッパ的な学問言語であることによって…文化的な単位としての「ヨーロッパ」という観念を成り立たせていた。「アリストテレスによる学問の言説の支配が中世・ルネサンス期の西ヨーロッパを統一したとすれば、ヨーロッパに別種の結合力を与えたのは、アリストテレスが執筆したギリシア語ではなく、翻訳者が用いたラテン語であった。…ラテン語使用はむしろ学問や思想を独占するための手段という性格を強めていたのである。

キリスト教思想と学問

キリスト教原理主義においては、自然の中に自立した法則性を探り出し、個々の自然現象にたいしてその自然的原因を究明するという指向は本来ない。聖書を正しく解釈するための自然現象の探求のみ、認められていた。それ以上の、たんに知的好奇心を満足させるためだけの自然研究は、中世ヨーロッパ思想に絶大な影響をあたえた教父アウグスティヌス(354-430)によって「目の欲」として肉体的欲望と同等の忌むべき克己すべき欲求とみなされていた。それは12世紀のシトーの修道会の指導者聖ベルナール(1090-1153)の「たんに知らんがために学ぼうとする者がいる。かかる好奇心は人間の品位を汚す」という発言に引き継がれてゆく。もともと知識は「蛇の誘惑」であった。