僕はピアノを幼少期から習ったり、今ではヴィオラを弾いていたりする。どちらも西洋文化から輸入されたものだ。であるからして、レッスンでは「ウィーンの人はワルツをそんな風には感じない」とか、「これはハイドンがパリで作曲したものだ、パリの豪華絢爛さ、あらゆるものがオープンでビッグ」とか、演奏に際してそのような文化や環境の差異に依る感覚の違いについて指導を受ける。このような時、自分が西洋人ではなく日本人であることを意識する。音楽家になりたいとぼんやり考えた時、西洋人でない自分が西洋音楽でどのようにそうした感覚の差異を埋めていけばいいのか、そんなことは不可能じゃないか、とか、その意味について考えたこともあった。10代の後半から、20代の前半にかけてだったと思う。もちろん、答えが出るものでもなかった。
この本に出てくる様々な日本人論は、西洋近代とそれに相対した日本人のアイデンティティの揺れを書き起こしたものだ。ただし、僕は昔の偉人たちと違って日本国家の国民としてのアイデンティティ、みたいなものは殆ど意識したことがない。この本で言うところの日本という「世間」に生きている人間、として西洋を意識している、と書けるかもしれない。久しぶりに漱石でも読んでみようかな。船曳建夫『日本人論再考』読了。
- 作者: 船曳建夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/04/12
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