まだら猫の毎日明るく元気よく日記

生活について書きます。

マッチングサービスの問題圏

マッチングサービスへの疑問

マッチングサービスの出会いを大別すると

  • 友達探し
  • 恋人探し
  • 結婚相手探し

になる。2つ目と3つ目の境目は小さいようで大きい。どういう場所で出会って恋に落ちたか、というなり染めの物語は長らく生活していく上で非常に大切なものになると思うからだ。我々は、フィルタリングに合致した相手とハッピーになれるのだろうか?チェックボックスの全てにチェックが入る相手とであれば無条件に愛し合えるだろうか?これに対する私の考えは、「なんだかよくわからなさ」という曖昧な留保なしに愛は不可能ではないか、というものだ。

偶然と必然という問題軸

社会で生活していると、同質の人間が集まる傾向がある。学校、サークル、会社。学力、趣味、文化。たとえば、僕は楽器を弾いているけれど、大人になっても楽器を続けている人間というのはそれだけでもフィルタリングされている。人間はどこかで偶然の出会いを必然だったと認識して(あるいはその可能性を持ち続けて)、人生を受け入れていく。

マッチングサービスの偶然と必然

ではマッチングサービスの出会いに必然性はあるか。あるといえばあるが、そこにわかりやすい必然性は見出せない。認知の問題かもしれないが。そのサービスをその時に使い、たまたま偶然興味を持ち出会った2人、という物語を必然の物語に仕立て上げるには想像力での架橋が必要だ。様々なフィルターで要素に分解された人間としてマッチングサービス上に存在している我々は、常に代替可能な存在で、同じような人間を探している人にとっては、常に他であり得る人となる。そんなことを言えば、リアルのコミュニティであれ僕たちは人をふるいにかけている訳だし。

閉じた人間関係、開いた人間関係

マッチングサービスでの出会いでは、共通の知人が存在しない。存在するにしても少数である。交際ならいいが、結婚となると、周りにどう説明するのかという問題が生じる。祝福してもらえるだろうか?という疑問も生じる。気にしない人たちであれば問題なく、また、常に新しい人々との出会いに溢れている人であれば障壁も感じないかもしれないが、ここには1つ心のハードルが存在する。

なんだかよくわからなさ

チェックボックスに全てチェックが入る相手、「この中から好きな相手を選んでいいよ」と言われたら、我々はそこで幸せになれるだろうか。ディズニー物語・古くは騎士道物語から、長らく「試練を乗り越えた者が愛を獲得する」という世界観が伝えられてきた。これは今も変わらずある。「乗り越える」ということに超越的な(精神的な)価値を見出すからだ。これが「説明不可能な」よくわからなさとなり、2人が一緒に結ばれる条件となる。なので、マッチングサービスによってマッチした2人も、ゆくゆくはそういう試練を2人で生み出し、それを超越する体験が必要なのではないか。愛とは、こんなにもチープで安く手に入れられるものだったのか?

まとめ

現状では、ヤリチンの狩猟場として機能している感が否めない。だが、そこから「幸せな結婚」まではマッチングサービスはデザイン仕切れていないのではないか。「この出会いは必然だった」という感覚、世間体を納得させるだけの理由、そして「超越的感覚」の欠如である。

階層社会への抵抗として

これまでは似たような文化圏・階層の者と世帯を組むシステムになっていたのが、マッチングサービスによって、全方位的に出会いが創出された。相対的に貧困層に位置していた者が上流層と結婚できることは社会の階層を固着させることに抗う力となる、という点は指摘しておいてよいと思う(微々たるものかもしれないが)。