たもたす。

人文系が好きなアラサー社会人です。読んだ本、観た映画、日々の記録。好きなピアニストはリパッティ。

昼の論理と夜の論理

    先週から田畑百貨店の火災については簡単に集められるだけの資料を集めた。依然として謎が深まるばかりである。にせよ、高校生の頃は疑問にも思わなかった千葉駅まわりの都市計画がどう進んできたのかがなんとなく分かり、この街がもつ自生的な秩序みたいなものが(多分に個人的なものにせよ)見えてきた。そして、ますます栄町という歓楽街抜きにしてこの街の成り立ちを語ることは出来ないと思うようになった。
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    ひとつ、論理というところから考えてみる。
    身体には身体の論理があり、都市には都市の論理がある。世の中にはいろいろな論理がある。言葉の論理もそうだし、しばしば男性にはよくわからない女性の論理というのもある(と思う)。水は高いところから低いところに流れ、太陽が昇れば朝になり、沈めば夜になる。これは自然と物理の論理。それぞれに、それぞれの論理がある。朝になると電車が動く、とか、昼になると飲食店が混む、とか。そういうレベルでの論理もある。
    時々、水が低いところから高いところへ流れ、太陽が沈まない世界を考えたりする。そうなったら世界はどうなるだろうか、と。こういうことを考えると、実社会はいくつもの論理(秩序)が組み合わさった上に成立していることがわかる。で、そういった論理は街にもある。景観から、道の伸び方、人の棲み分け、などなど。風が吹けば桶屋が儲かるというのもそうだ。

    そして、歓楽街というのを考えるのであれば、街を昼の論理と夜の論理とで切り分けて整理することができる。昼間と夜とでは、人の動きは異なるだろう。異なる場所に灯りが灯され人口密度の濃淡も移動するだろう。
    基本的には、夜の論理は隠蔽される。パセティックで、秘匿的なものだ。でも、僕らは昼間の世界と夜の世界が連関していることを知っている。街にも夜の論理が機能している、というとき、それはクラブでありバーでありレストランであり、宿であり風俗である。風通しのよい街というのは、昼と夜との着替えが上手く、


    古くから、死、性、霊、(音楽・演劇・踊りも加わる)そういったものが夜の論理を司ってきた。夜の論理はとても強くて危険なもので直視できないから、ナマモノとは違う形で昼間の空間に流し込まれてきた。昼の論理の仮象を纏うことで、我々はこの得体の知れないものと関わることができた。

で、夜の論理ってなんだろうね、と。
我々が昼間に活動している時に使い、出会うものとは異なる形の論理。言葉ではない論理。そういうものなんじゃないかと思う。

    千葉の栄町を歩きながら懐かしい感覚を思い出していた。なぜなら、ここは夜の論理が生きている場所だから。
    人はどうしたって昼の論理だけじゃ生きてけない。



*1:先週の記事の追記としては、この田畑百貨店火災のあった1970年代初頭の千葉銀座(という商店街の名である)は、千葉駅移設による通行量の減少から活気が失われ、様々な団体が関わりつつ解決策が模索された時期であり、この百貨店の火災は政治の力が働いた可能性を排除できない状況で起こった、とひとまずは結論づけることができそうである。それ以上は問うてはならないのかもしれない。